ロサンゼルスのオザモトさん

僕はオザモトさんのあの瞳を一生忘れない。あの澄んだ綺麗な瞳を。
オザモトさんは僕がロサンゼルスに住んでいた時のアパートのオーナーだ。
アパートは全部で6部屋ぐらいあって、全てロサンゼルス在住の日本人が入居していた。
僕の隣にはお寿司屋さんのシェフ兼オーナーさんが一人で住んでいたのを覚えてる。
オザモトさんは、僕が2006年にアメリカの現地の高校を卒業するときには、確か80歳オーバーだった。
そんな彼はよくアパートに来て草むしりをしていた。80歳なのに、作業着に軍手姿で炎天下で草むしりをしていた様子は今も忘れられない。
オザモトさんが草むしりをすれば、奥さんのメリーさんは、むしった雑草や落ち葉を拾ってゴミ袋に入れる役目だった。
僕は高校生ということもあってか、よく二人に可愛がってもらい、その当時楽しく会話をさせてもらった。
オザモトさんは確か日系2世で、メリーさんは3世か4世だったと記憶している。
オザモトさんとの会話は基本日本語で、メリーさんとは英語で会話をした。
メリーさんとの会話でいちばん覚えているのは、戦後彼女が受けた差別の話だ。
レストランに入ろうとしても日本人という理由で入れず、入れたとしても 「Fu**ing J*p」 のような差別用語を何度も言われたそうだ。
これが比較的差別が少ないカリフォルニアで数十年前まで起きていたと考えると、当時のロサンゼルス在住の日本人は本当に苦労したんだなーと思う。
一方でオザモトさんとの会話で記憶に残っているのは特にないんだけど、とにかくあの澄んだ瞳が忘れられない。
彼を含む多くの日本人は戦時中、日本人という理由でキャンプ場に入れられ、戦争が終わってキャンプ場から出たと思ったら家を失っていたわけで、その絶望は想像を絶する。
その後オザモトさんは、戦後日本人として苦労したのをきっかけに、もう二度と日本人には苦労してほしくないと思い、ロサンゼルスにアパートを建てて、破格な条件で日本人に貸していた。
本当にとんでもなく懐の広い人だ。
普通なら、アパートを建ててそこを貸すってなったら、やれ何年でいくら収入があればいくら回収できて、やれ利回りがいくらでみたいな計算をするだろう。
彼はそんなの無視でこの辺にしては破格な値段で貸していた。大体相場の1/2ぐらいだった。
2020年にアパートに戻ったら、アパートは健在だった。
盆栽みたいな松の木がエントランス付近にあるのが特徴的で、あの木もまだ残っていた。

今このアパートのオーナーシップはどうなっているかわからない。知り合いに聞いた話だとメリーさんは数年前にお亡くなりになったそうだ。
どうせなら2020年にこのアパートに寄った際に、怪しまれるのを覚悟でノックして住人に聞けばよかったと少し後悔している。
今後、オザモトさんのような人に出会うことはほとんどないんだろうなと思う。

*この壁に向かってサッカーボールをよく蹴っていた。超えたらやばいからかなり慎重に蹴っていたのを覚えてる。

*僕はこの写真の右側に位置する奥の部屋に住んでいた。
家賃が一番のコスト
実は突然オザモトさんについて書こうと思ったわけではない。
きっかけは、たまたま以下の新聞を見たからだ。
『在台北月薪多少才夠活?過來人悲吐「最大成本」:年薪120萬仍過得像難民』(台北で月収はいくらあれば生活できる?経験者が嘆く「最大の出費」:年収120万元でも難民のような暮らしに)
まーざっくり内容を話すと、台北は家賃が高すぎて、とてもじゃないけど月収5万台湾ドル以上ないと住めないって話だ。
「確かになー」と心の中で思う。
とはいえ、幸いにも僕が台湾で貧乏生活をしていたのは、ワーホリで台湾に来て農場で住み込みしていた15年前の8ヶ月で、それ以降はそこまで問題なく暮らせてる。
起業して給与が月々 33,000台湾ドルだった時でさえ、そんなにお金に困っていた印象はない。
ただ、15年前は本当にお金がなかった。
あの時は本当にお金がなくて、100NTDのスウェットのパンツを買うか150NTDのを買うかで本気で悩んでいた。
その当時僕が住み込みをしていたのは龍潭という場所にある農家で、ここが10〜11月になると地味に寒い。
作業用のジーンズしかなかった僕は、夜も汗だくのジーンズを履いて寝ていたが、流石に不衛生と思ってパジャマ用にスウェットを買うことにした。
近くのディスカウントショップ的な所に行くと、一番安いやつで100NTD(当時のレートで300円)で、次に安かったのは150NTDだった。100NTDのスウェットはデザインが悪く、150NTDのやつはデザインが良かった。
機能はどっちを買っても一緒だったと思う。今なら迷わず150NTDの方を選ぶけど、その当時はお金なくて本当に迷った。
安さを選んでダサいスウェットを選ぶか、はたまたマシなデザインのスウェットを買うか。
悩みすぎた結果、その日は決められず、翌日に買いに行った。結果的に150NTDのを買って、その後日本に帰国した後も本当に大事に使った。
あの時一瞬だが、真剣にお金持ちになりたいと思ったし、お金持ちになりたい人の気持ちがわかった。
その後、台北で働き始めた時の話をすると、僕は当時、松山駅付近のアパートで一人暮らしをしていた。家賃は16,000NTDで、給与は60,000NTDだった。
これは29歳の僕には十分すぎる給与だった。
おまけにその当時は残業も厭わずすごい働いて、幸いにも努力に比例して結果も出たことで、なんと半年後には3,000NTDの給与アップとなり、その半年後も3,000NTD給与アップした。
だから、1年後に前に勤めていた会社を辞める時には給与が月66,000NTDだった。
30歳で66,000NTD の給与は中々の高給取りだ。
ただ、その当時はその何倍もの利益を会社にもたらしていたし、少し天狗になっていた。
その後当時の役員に目をつけられ干されるけど、それぐらいして高くなった鼻をへし折る必要があったと自分でも思う。
実はその当時は自分の消費パターンを理解するために、マメに家計簿を取っていたんだけど、僕の消費は多い時で38,000NTDぐらいで、少ない時で29,000NTDぐらいだった。
お金を貯めたくて消費をしないというよりは、単純に欲しいものがあまりなかった。
週末も家にこもってパソコンで自分が立ち上げたサイトのメンテナンスか勉強をしていて、夜は当時付き合っていた彼女とご飯に行ったり、たまにどこかへデートしに行く程度だった。
僕は日本で社会人生活をしていた時も、基本土日は常に勉強をしていたせいか、勉強が習慣になってしまった。今も週末はカフェに行って本を読んだり勉強してる。
勉強が趣味って我ながら素晴らしくお金を使わない趣味だと思う。
起業後は趣味の勉強が仕事にシフトした感じだ。
でも99%ぐらいの人は僕と違う。
ましてや今の20代はSNSでキラキラしたお友達の生活や、旅行に行ってる写真、いいレストランに行ってる写真、いい服を着た写真など見たら、どんどん自分もそうなりたくなるだろう。
でも現実はとても厳しい。
会社の給与はなかなか上がらず、家賃も右肩上がり。
楽して金儲けしようと一攫千金を狙ってSNSに動画を投稿してもレッドオーシャンで、99%は結果が出ない。
そこへ今度はAIが来て、AIがなんでもできるもんだから、若い人の絶望感は相当なものだろう…
セーフティーネットワーク
将来的に、なんか困っている人に対してオザモトさんみたいなことができたらなーとは漠然と思う。
流石に台湾でアパートを購入するっていうのは現実的じゃないと思うけど、僕と同じような境遇(起業した人!?) に何かしたいなーとは思っている。
applemint lab も可能なら、メンバーにいろんな仕事を紹介したり発注したりしたいが、こればかりはタイミングがある。
オザモトさんほどじゃないにせよ、台湾にも懐が広い人はたくさんいる。
15年前に初めて台湾に来た時、僕を何ヶ月も無償で住まわせてくれた Tabby という台湾人女性がいる。
元々教師で、今はとっくの昔にリタイアしたが、この人もとんでもなく寛容的な人だった。
ちなみに Tabby は結構やり手の投資家だ。
僕が日本に帰って数年経った2013年頃に、突然連絡が来て何かと思ったら、日本の不動産購入の緊急連絡人!? になってくれみたいな話だった。
その後不動産会社の人から電話が来て、話を聞くと外国人 (台湾人) が日本の不動産を買おうとしているけど、困ってます!この人大丈夫ですか?みたいな電話だった。
いや、僕に言われても…笑
その当時は外国人が日本の不動産を買うなんて珍しすぎて、不動産会社の人は何をしたらいいかわからなかった。
そこで、不動産の人と Tabby は話をした結果、誰か日本人の緊急連絡人がいれば購入OK ってなったらしく、日本に住む唯一の日本人の知り合いということで、僕が選ばれたというわけだ。
彼女が購入したのは、京都駅徒歩10分ぐらいの築50年オーバーの家で、その当時800万円ぐらいで購入したのを記憶している(緊急連絡人ということで、契約書を見る羽目になり…)
今買おうとしたらいくらになることやら…
その当時、毎年10回以上日本旅行行ってたらしく、ホテル代もったいないから、家を買っちゃおう!って感じで買ったらしい。
今売ったらとんでもない事になる。
ちなみに Tabby と Tabby の旦那さんは購入後、家を自らDIYし、床も浴槽も電気周りも全て一からやり直していた。
それはそれですごい。
Tabby と最後に話したのは2022年だ。規格外の野菜を販売した時に来てくれた。
恐らく今も一年の大半は日本にいるんだと思う。
今僕の周りには Giver の友人はいるけど、オザモトさんや Tabby のようなレベルの Giver はほとんどいない。
むしろ日々 Taker に囲まれてるし、会う人、ニュースで聞く話、ほとんど投資費用対効果やお金の話ばかりだ。
そんな環境にいると、ますます Giver の人に会う機会が少なくなる気がしている。
だからひとまず今年は、自分が面白いと思った事や自分が Give したいと判断した人や会社に対しては、Give していくと決めた。
醤油のイベントはその第一弾で、次がTシャツかな。
オザモトさんへの道のりは果てしなく遠いが、小さな事から始めたいと思う。